イエスの処女降誕再考

アガペーは母性愛

処女降誕はイエスがキリストであることを証明する

「聖霊によりて処女が妊娠して子供を産んだ」というようなことは常識では考えられないが、科学の進歩した今日においても、なお多くのキリスト教諸教会では、その教義の中に信仰告白として表現されている。ただし、イエスのことばと、復活による救いを強調するキリスト教諸教会では、処女降誕の謎を論理的に解明することに対しては全くといってよいほど消極的態度を示すのみである。

イエスの伝記である新約聖書の四福音書は、イエスの死後、三十五年以上の歳月が経過した後に四福音書家によって書かれたものである。そのうちマタイ(取税人)とルカ(医者)は、イエスが聖霊によって処女から生まれたことを重要な出来事であるとして記録している。一方、マルコとヨハネは、イエスが聖霊によって処女から生まれたか否かはまるで本質的問題ではないかの如く扱い、イエスの誕生については全く触れていない。

私は、処女降誕説と天上の異変(東方の博士をイエスのところまで導いた星=メシア誕生を告げる星)こそが超越神の存在と、イエスがキリストであること(超越神とキリストと聖霊の三位一体)を客観的に証明する唯一の方法であると考えているので、処女降誕の重要性を強調するマタイやルカと、それを全く強調しないマルコやヨハネとの視点の相違にたいへん興味が引かれるところである。

天使が夢の中である女性に告げる。「世の混乱を救うためにひとりの聖人をこの世界に送るので、あなたの腹を借りて産んでもらいたい。その時、あなたと聖人を守るために一人の男性を用意するので生活費などのことについてはいっさい心配しなくてもよい」

このような物語について、あなたなら次の三つのうちどの立場を選ぶか?

イ・実証できないが、おおいにありえることだ

ロ・論証もできないことを言うべきではない

ハ・このような突飛なことを思いつく動機にたいへん興味がある

イエスが実在した人物であることを否定する説(架空人説という)もあるが、イエスの生涯と言行のすぐれた道徳性などからみて、イエスが実在した人物であるという説の方が今日では有力のようである。とするならば、やはりイエスの半生のプロセスが多くの人々の関心を引くのも当然と言えよう。次に代表的な説を五つ紹介し、若干の私の意見も付け加えよう。

◎精神医学者の小此木啓吾氏は、中世ヨーロッパ社会についてフロイトの精神分析の観点から、興味深いのはやはり聖母崇拝と処女降誕説であると主張する。「イエスの場合、産みの母の性が消去されて無性化される。聖書には、聖霊によって身ごもりとあるんですが、あれはどういう意味を含んでいるか」(講談社『日本人の社会病理』)

◎作家の阿刀田高氏は、イエスの出生にまつわる不思議なエピソードが広く語られていれば、マルコやヨハネがそれを無視するはずがない、という理由で処女マリアの受胎告知はなかったろう、と結論づけている(新潮文庫『新約聖書を知っていますか』)

◎作家の椎名麟三氏は、キリスト教徒として最初にひっかかるのは、処女降誕であると言う。「それも残念なことに夢に現れた天使の言葉以外には何の根拠もないというところにどうも始末が悪く腹が立つばかりである。イエスの誕生にまつわる合理的な説明はこれから先もいろいろのものがでてくるだろうが、それを悲しみながらも、一方では楽しみにしている」(中公文庫『私の聖書物語』)

◎「イエスは聖霊によって処女マリアから受肉し・・・」は、ニカイア信条(三二五年)以来のキリスト教の教義である。キリスト教としてはこれを正面から否定するわけにはゆかないが、スイスの弁証法神学者ブルンナー(一八八九~一九六六)のように「ロゴス(言葉)の受肉がイエス」であることを第一義的なことであると考える牧師や神父たちは、処女降誕を第二義的なものに格下げしている。何しろ現在では、「聖霊によって処女マリアから」を「イエスは神の子としてみむねに従って人となり」にと信仰告白を変更した教派もある。また教義や信仰告白のなかに「処女降誕」を入れていない教派もたくさんある。さらには、「聖霊によって処女から」のところは誤訳であるという人々すらいるくらいである。

◎無原罪のマリアが心とからだで神のみことばを受けて、イエスを身ごもって産んだとする無原罪壊胎説を主張するカトリック教会では、聖霊による処女降誕を疑いもなく素直に信じ切っている聖職者や信者が多いように思われる。医学的観点から見るのではなく、信仰的観点から見れば必ず理論的に解明できるだろうと信じて楽観視しすぎている神父もいるし、教皇ヨハネ・パウロ二世も一九九七年世界召命祈願日に、「み言葉に耳を傾けられたおとめマリア、胎内に人となられたみことばを宿されたおとめ」というような、カトリック教会以外の人々にはなんとも理解しがたいようなお祈りを披露しているが・・・。

夫婦でありながらあまりにも過大評価されすぎているマリアとは対照的に、ヨセフを単なる彼女の付け足しのように考えるカトリック教会のこういった信仰内容だけで、「聖霊によって処女が妊娠して子供を産んだ」ということがほんとうに第三者に理解され、納得してもらえるかどうか、私にははなはだ疑問である。        

最後に私の立場を述べよう。

同学年の女性に引かれて・・・

母親が父親にいじめられ、いためつけられることによって、精神的にもがきながら理性を狂わせて息を引き取る。この時の母親が自分の産んだ子供に精神的に何らかの影響を与える。子供が小学生・中学生の多感な時期であればあるほど、子供が受ける影響は強いように思われる。

私が大学生の頃、中学一年生の時に自分の母親をこのような原因で亡くした同学年の女性に、面と向かっては会話もできないほど引かれ続けた。結局、私と彼女とは運命の赤い糸で結ばれてはいなかったが、こういう体験を通じて、私はイエス=キリストの処女降誕に通じる一つの道を発見し、それを文章表現していくことができた。

超越神がもし人間すべてを創られたならば、、人間に対する超越神のアガペー(自己犠牲愛)は女が自分の子供を産んで、そして逆境の中に追いやられても命がけで子供を第一に守り育てぬこうとする母性愛とよく似たものであるに違いない、というのが私の神観である。

「聖霊によって処女が妊娠して子供を産んだ」ということがほんとうに理解され、納得してもらえると確信している。私の小著『イエス=キリストの処女降誕説を実証する』を読んでいただければ幸いである。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

                    (ヨハネ伝三章一六節)

                       平成11年10月16日の中外日報より