ここ最近のことですが、私は、著名な精神内科医の一人(米山公啓氏)の著書『子どもに迷惑かけたくなければ死の迎え方は自分で決めておきなさい』の「はじめに」の部分に書かれている以下の言葉に目が留まりました。
「今の医学は死をどう迎えていけばいいのかが十分に考えられていません。死の先延ばし、つまり延命処置はいろいろありますが、充実した死の迎え方という問題は避けてきました。高齢者が増えている現代では、どんな風に最期を迎えるかがますます多くの方の関心事にもなっているはずです。そんな状況であっても病気の治療や介護の情報はたくさんありますが、死の迎え方の情報がほとんどありません。」
今から22年ほど前に、私は、一人の老精神科医と「シングルの老後を巡って宗教と科学の係り方についての討論会」の準備として、数回、彼の自宅で雑談したことがありました。その際、彼が特に強調して訴えたかったことがありました。それは、「死に方についてのノウハウを持っているのは宗教だけだ」ということでした。私は一宗教家の立場から熟考を重ね、死の迎え方や死生観に関する一つの見解をようやくまとめることができました。それと併せて、祈りの対象や祈り方についてもご提案申し上げたく存じます。もちろん、人に強制するものでは決してありません。
今後、孤独で、お金のない独居老人が一層増えてくるものと予想される中、私は、ある条件を満たした上での自由死(断食自然死や自己安楽死など)する権利と、国家によるその権利の保障についてはどうあるべきかについて、国民的議論の必要性を訴えたいと考えています。社会保障の中でも特に無駄とも思えるような過剰な終末期延命治療や終末期胃ろうと、それらに伴う介護費の増大を抑制していく方法については、厚労省関係の方々にはもっと頭を柔軟に働かせていただきたいと切に願っているところです。